壕について ホーム > 旧海軍司令部壕 > 壕について 旧海軍司令部壕とは 昭和19年(1944年) 日本海軍設営隊(山根部隊) によって掘られた司令部壕で、当時は450mあったと言われて います。カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固め、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で、4000人の兵が収容されていました。戦後しばらく放置されていましたが、数回に渡る遺骨収集の後、昭和45年 (1970年) 3月、観光開発事業団によって司令官室を中心に300mが復元されました。 壕内案内図 壕内の様子 壕入口階段105段、20mほどの階段を降りると、通路が縦横に張りめぐらされた壕内へと続きます。 通路壕内は、薄暗い通路が無数に張り巡らされ、迷路のようになっています。 幕僚室司令官室・作戦室に近いこの部屋は幕僚が手榴弾で自決した時の破片のあとが当時のままくっきりと残っています。 下士官兵員室玉砕の近い6月ごろ、この部屋は立錐の余地もない程兵士たちが入り、立ったままで睡眠や休息を取ったといわれています。 医療室この部屋を中心に多くの負傷兵がいたということから、医療室となっています。 司令官室大田司令官の愛唱歌が鮮やかに残されています。 大田實海軍少将 旧海軍司令部壕の司令官であった大田實少将はじめ幹部6名は、米軍の猛攻に昭和20年6月13日夜半、拳銃自決を遂げました。大田少将が海軍次官に宛てた、沖縄県民の献身的作戦協力について訴えた電報が残っています。 司令官室 司令官室の壁面には「大君の御はたのもとに死してこそ 人と生まれし甲斐ぞありけり」という大田司令官の愛唱歌が鮮やかに残されています。