よくある質問

よくあるご質問(FAQ)

皆様から寄せられたご質問にお答えします。

20名様以上の団体のお客様は事前予約をお願いします。 19名以下の場合は、特に予約は必要ありませんが、予約状況をお知りになりたい方はお問い合わせください。その他、車椅子でのご来館やスタッフのお手伝いが必要な場合には、事前にお問い合わせください。
資料館、壕内見学あわせて30~40分程度です。
ロッカーはございませんが、スーツケースのような大きい荷物やベビーカーなどは受付でお預かりすることが可能でございますので、券売所スタッフにお声がけください。財布や携帯電話、スマートフォン等の貴重品はお預かりできませんのでご了承下さい。
現在、現金・クレジットカード・PayPay・LINEPayでのお支払いが可能です。
100台分の無料駐車場がございます。壕入り口に一番近い駐車場は、坂の一番上にございます。壕出口は坂の途中にあります。
壕内にエレベーターはございません。壕内へのご入場は105段の階段を降りていただき、出口付近は坂道(スロープ)を上ります。階段を下ることが難しい方は、出口より車いすを使用して入壕することができます。電動アシストの車いす(2台)がございますので、事前にご相談ください。
年齢制限はございません。但し、壕内へのご入場は105段の階段を降りていただき、出口付近は坂道を上ることになります。足の不自由な方、妊娠中の方、小さなお子様連れの方は事前に階段と、出口の坂道の昇降が可能かをご確認下さい。
障がい者手帳(療育手帳・精神障がい者保健福祉手帳を含む)をお持ちのご本人様と介助の方、2名様まで50%割引料金でご利用頂けます。
悪天候時には、随時ホームページの「新着情報」やtwitterにてお知らせいたします。
海軍壕およびその周辺の遺骨は、終戦直後、豊見城集落の人たちによって、その後は旧海軍関係者の団体である沖縄海友会の手で収集されました。集められた遺骨は、豊見城城址公園の一角に火葬された上で祀られていましたが、その後那覇市識名に戦没者中央納骨所が完成したので、そこに移されました。 昭和54年摩文仁の平和祈念公園内に「国立沖縄戦没者墓苑」が建設され、海軍壕関係の遺骨も再度そこに移されました。現在はそこで沖縄戦の犠牲となった他の遺骨と一緒に合祀され、永遠の眠りについています。
大田司令官が沖縄に赴任したのは、昭和20年1月20日です。亡くなったのは6月13日ですから、沖縄にいたのは6ヶ月です。その間に当時の 島田知事から戦争によって県民がいかに苦しんでいるのか、詳しく聞いていました。また自身も小禄半島をはじめ県内各地を視察していましたので、県民の実情をよく知っていました。そうしたことがありましたので、自決する一週間前になって、「今、自分が報告しておかなければ、将来県民のことが忘れられてしまうかもしれない」と考え、電報を送ったものと思われます。
違います。沖縄戦が始まった頃、全部で約1万人の海軍の兵隊がおり小禄半島には約8300人の海軍の兵隊がいました。これだけの兵隊が小禄にいたのですから、当時小禄中が海軍壕だらけでした。現在、海軍壕と呼ばれているところは、その中の「司令部」があった場所です。
壕内には井戸や炊事場はありませんでした。壕から200メートルぐらい離れたところに豊見城集落の大きな井戸がありますので、そこで水汲みや炊事をしました。しかし、戦闘が激しくなってからの水汲みや炊事の仕事には大変な危険があり、壕から出て行って再び帰ってこなかった兵隊もたくさんいました。 なお、食料は壕内に豊富にあったので、食べ物には困りませんでした。
壕内にトイレはありませんので、兵士達は空襲や戦闘の合間を見て、壕の外で排泄をしました。戦闘が激しくなってからは、壕外には出られませんから、やむを得ず中でやりました。排泄物のにおいだけでも壕内生活は、臭くて惨めな毎日でした。 大田司令官は5月に入って次の電報を打ちました。「便所は、壕外では非常に危険なので同一壕内に設置すべきである。そのためには防臭、排便施設について研究する必要があります。
壕内の通風はよくありません。ですから、普段は学校や大きな民家などで生活をし、空襲の時だけ一時的に壕に逃げ込みました。しかし、アメリカ軍が上陸してからは、連日のように艦砲射撃があり空襲がありますから、壕内で暮らすようになりました。壕内は湿度が高く、しかも大勢の人が入っていましたから、人の息だけでも大変でした。戦闘が激化してからは、病人や死体も一緒ですからなおさら大変でした。兵士たちは戦闘がやんで、壕の外で新鮮な空気を吸う一時が、「生きている」ということを一番に実感したそうです。
海軍壕は、第226設営隊(山根部隊)によって昭和19年8月から着工、12月に完成しましたが、一説によると、大空襲があった10月10日以降に掘られ、沖縄戦の最中も未完成だったともいわれています。壕の長さですが、当時は約450メートルあったそうです。現在は約300メートルが一般に公開されています。この壕の特長は、すべて「人の手」で掘られていることです。 南部には多くの自然壕がありますが、海軍壕はすべてが人工的な手作りの壕です。当時は現在のようなハイテクの機械設備もありませんから、もっぱら「つるはし」や「くわ」等によって掘られました。兵士たちが不眠不休して掘ったつるはしの一本一本の跡には、今でも当時の兵士達の苦労の跡がしのばれます。なお、この壕は当時最高機密に包まれていたため、壕掘りに住民は参加していません。地域住民がこの壕に近づいたら、兵隊に追い払われたそうです。
沖縄戦の際に海軍の重要な軍事拠点である小禄飛行場を守るためにここに司令部壕が作られました。この場所が選ばれたのは、「海軍の小禄飛行場に近い高台で、周辺を見渡すことのできる位置にある。見晴らしがよく戦闘に入った場合、肉眼でも敵・味方全体が掌握しやすい。通信に障害が無い」などの理由があげられます。又、海軍壕は海抜74mの丘にあり、戦時中は「74高地」と呼ばれていました。 地元では「火番森(ヒバンムイ)」と呼ばれ、王国時代は中国から来る船や異国船の来航をいち早く知るために、久米島や慶良間の島々でのろしを上げていました。慶良間でのろしが上がるとここでものろしを上げ、いち早く首里城へ伝えた場所でもありました。那覇港に近く、海の向こうの島々が見渡せる見晴らしのよい場所だったのです。